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【オールスターの話をしよう#1】伝説の第1回は、こうして始まった

作成者: Basser編集部|Nov 7, 2025 8:46:49 AM

1987年からはじまったバサーオールスタークラシック。36回の歴史のなかでさまざまなことが起きた。この連載では歴史や裏話など、オールスターにまつわることをさまざまな角度からお伝えしたい。第一回はバサーオールスタークラシックの成り立ちを振り返る。

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それは3人の熱からはじまった

バサーオールスタークラシックの第1回は芦ノ湖で開催された。今回はこの試合を成り立ちから振り返ってみたい。まず、いかにしてこの大会が発想されたのかをお伝えしたい。かつてウェブサイト「つり人オンライン」に掲載した「THEHISTORY OF ALLSTARCLASSIC」から引用した文を読んでいただきたい。

1987年、都内のとある喫茶店に、日本のバスフィッシングトーナメントの未来について語り合うふたりのアングラーの姿があった。故・林圭一さんと沢村幸弘さんである。そこに林さんからの要請に応じて、『Basser』編集部員の三浦修さん(後の2代目編集長。当時の編集長は弊社会長・鈴木康友)が加わり、話はいよいよ本題に入った。

林さんと沢村さんから三浦さんに打ち明けられたのは、「試験的トーナメントのプラン」だった。当時、林さんは日本のトーナメントシーンにある危惧を抱いていた。1970年代にアメリカの流れを引くトーナメントが日本でも行なわれるようになり、1980年代半ばには「プロ」というコンセプトを前面に出した賞金制のトーナメントもスタートした。現在のシーンへと繋がっていくプロトーナメントである。しかし、当時はあらゆる面で試行錯誤が繰り返された過渡期であり、「プロ」にも「トーナメント」にもこれから発展・成熟していくうえでの課題が山積していた。 林さんは早くからトーナメントがスポーツとして認識されてほしいと願っていた。早朝スタートして、夕方に戻り、釣った重さで順位が決まる。入賞すれば賞金がもらえる。これだけで、果たしてそれが叶うのか。

たとえば観戦スポーツの雄である野球は、勝敗とスコアを伝えているだけではない。プレイボールが宣せられてから9回裏までのドラマ、駆け引き、選手の歓喜や落胆といったすべてを球場や放送で共有できるからこそ、あれだけ熱狂的なファンが生まれ、そこに野球というスポーツや選手への評価、敬意も生まれる。 バスフィッシングトーナメントに置き換えれば、アングラーの戦略、それをやり遂げるためのタックルの選定、目の前の状況変化へのアジャスト……、そういったプロセスや、選手の苦悩、歓喜が伝えられなければ、その結果としての順位や賞金はきちんと評価されないのではないか……。

林さんと沢村さんが三浦さんに明かした思いと「試験的トーナメント」とは、そのプロセスの全公開を前提としたトーナメントの必要性だった。 当時、『Basser』は日本初のバスフィッシング専門誌としてスタートしたばかりだったが、林さんにしてみれば三浦さんは大学の後輩であり、同じB.A.S.S.ofJAPANに属してもいたので、トーナメントの理想像を共有できると思ったのだろう。 一方で、三浦さんにも心に秘めた夢があった。それはアメリカのように観客が楽しめ、選手と一体となれるトーナメントの開催。

スタートからウエイインまでギャラリーが飽きることのない空間を日本でも実現したいと三浦さんは考えていたのである。 ここに林さんと沢村さん、そして三浦さんの思いが重なり、各々の夢を乗せて企画は動き始めた。共鳴してくれる10名のトッププロを林さんが集め、その豪華な顔ぶれに相応しい名を三浦さんが付けた。

「AllStarClassic」 当時20代の青年3名が掲げたプロセス全公開の「理念」と、オールスターの名に込められた「選手への敬意」は四半世紀を超えて受け継がれ、観る者を熱くさせる現在の「BasserAllstarClassic」があるのだ。

出典:THE HISTORY OF ALLSTAR CLASSIC

5月の芦ノ湖にて

3人が語り合った「試験的トーナメント」は1987年5月4日に現実のものとなった。名称は「シミレーショントーナメント」または「Basser Invitational Tournament」。当時はまだ「オールスター」の名はつけられていなかったが、「このメンバーは日本のオールスターだね」というプレスアングラーのひと言が紹介されている。

この試合は全選手にプレスアングラーが同船し、一挙手一投足を記録。そして結果をもとに選手とプレスがディスカッションを行なうという特徴があった。すべてが「プロセスや、選手の苦悩、歓喜」を伝えるための手段である。 この試合の詳細を伝える誌面を紐解いてみよう。レポートは1987年秋号に掲載されいるが、ボリュームはモノクロ12ページと今と比較すると決して多くない。しかし、そこから伝わってくる熱量にはすさまじいものがある。

展開や移動経路の詳報はもちろん、全選手がボートに積んだすべてのロッド・リール・ラインの番手が記載され、ルアーローテーションのすべてが表にまとめられている(シンカーのウエイトやルアーカラーチェンジも!)。普通は表に出てこないトーナメントのすべてを伝えるんだという気迫が伝わってくる記事である。

試合中の出来事やコメントだけではない。初日の夜の宿の部屋でかわされた雑談までも記録されている。

田辺「今日は、思いどおりの釣りが展開できたからね。選手プラクティスに来てだいたいの傾向はつかんでいたから。でもすごいプレッシャーだよ。このメンバーでしょ。それにプレスが乗っていると、何かすごい緊張するんだよ。一挙一動記録されているためかもしれない。何とか、今日のリードを守りたいね」

こういった具合である。

また、試合内容以外にも、検量方法やレギュレーションの試行錯誤のプロセスも記載されている。バスを弱らせないためにライブウェルから検量機までにかかる時間を短縮するための方法にはじまり、盛り上がりやすい検量の順番やボートに持ち込まれるタックルの本数制限など、トーナメントにまつわるありとあらゆることがディスカッションされていることが伝わってくる。

ちなみにこの試合を制したのは田辺哲男さん(当時28歳)。パープル系カラーのネオンワームのテキサスリグのロングシェイクがメインパターン。ルアーローテーション表にはディープダイバーやラバージグの記載もあるが、「交換した理由」欄には「河辺さんに会ったから」「河辺さんにまた会いフェイントをつかう、見えなくなるとまたネオン」「沢村さんに会いフェイントをつかう」とある。 今でこそトーナメントのプロセスを知ることができるのは当然になっている。その背景には熱いバサーたちのトライ&エラーがあったのだ。

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